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じぞくのコラム Vol.4 「非器なりと思ふことなかれ?」

こんにちは、大泉寺寺族の奈美です。

例年でしたら5月に入るとお施食会(せじきえ)の準備に大忙しとなるのですが、今年はこのような状況ですのでお施食も内献(内々)にて行うこととなり、例年ほどの慌ただしさはありません。とはいえ住職はお施食会に向けてたくさんのお塔婆を書いたり施食会法要を執り行うための準備をしたり、もう少ししたらご本堂もお施食会に向けてお掃除や準備が始まります。

さて、お寺では毎月曹洞宗で出版している「禅の友」という冊子を配布しています。今でもお参りにいらした皆さまにはお渡ししていますがその機会もやはり減っているので、今日は「禅の友」5月号を読んで私がピンときたことを紹介してみようと思います。

ちなみに前回のブログで、以前はお寺の奥さんということに気負いすぎて仏教の教えもなかなか頭に入ってこなかったと書いたのですが、毎月の「禅の友」は30ぺージ程度の冊子の中に仏教の教えが少しずつ解説されていたり、お料理のレシピやコラムなど学べる部分と楽しめる部分とがあり盛りだくさんの内容なので、とても読みやすいです。

「非器なりと思ふことなかれ」

これは「禅のことば」という、永井政之ご老師の連載の今月のタイトルです。

この言葉は道元禅師の「正法眼蔵隋聞記」(しょうぼうげんぞうずいもんき)に出てくる言葉なのだそうです。

結婚した頃に頑張って現代語訳の簡単なものを読もうとしたけれど、文字は追えても内容はさっぱりわからなかったし頭に残っていなかったのですが。

原文は以下のようなものだそうです。

“示して云く、世間の人多分云く、学道のこゝろざしあれども世は末世なり、人は下劣なり、如法の修行にはたゆべからず(中略)人人皆な仏法の器なり。
かならず非器なりと思ふことなかれ。依行せば必ず証を得べきなり。”

「禅のことば」で永井政之ご老師はこう結んでいます。

『しかし未来は「私たち」が作っていく世界です。自分が「非器でない」ことを信じ、生きたいと念じます。』

これを読んで、以前参加した「おむすびの会」のことが頭に浮かびました。

「おむすびの会」というのは私の友人が定期的に開催している、佐藤初女さん直伝のおむすびの作り方を教わりながらみんなでおむすびを作る会です。

優しく丁寧に洗ったお米を炊飯器で炊いて、ひとつ分ずつお椀によそい分けてからこれまた丁寧ににぎっていくのですが、いつでも家にあるようなお米、塩、梅干し、そして土鍋や圧力なべなどの特別なものではない炊飯器を使っているのに、教わった通りに丁寧ににぎったおむすびはそれまで作っていたおむすびとは全然違うものでした。

おむすびという1つの形になっているのに、お米一粒一粒の形と味を感じられてとても感動したのを覚えています。

家で慌てて作ったり取り合えずそれっぽく作ろうとしてもこの時のような味にはならないのがとても不思議です。こども達からも「あのおむすび」が食べたいとご指名がかかるほど何かが違うのです。

「非器なりと思ふことなかれ」を読んで、お米1粒1粒を味わいながら食べたおむすびの味を思い出しながら考えたことは、私が生きている “今” も個性の違う1人1人がごちゃまぜに存在して初めて成り立っている。その「器(うつわ)」の材料も形も色も使い道もぴったりの場面もそれぞれだということ。

「あなたは無力なんかじゃない。あなたは力ある人間なんだよ。」そう励まされたような気がしました。

などと書いていたら、久しぶりに丁寧におむすびを作ってみたくなりました。


久保井奈美(大泉寺寺族)
2001年に住職と結婚。
カトリックの高校を卒業後、服飾の専門学校、アルバイト、デザイン事務所を経て、現在は大泉寺でお寺の奥さんをしています。

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