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「今」を生きる為に

大泉寺通信「せせらぎ」第6号 表紙より

「今」を生きる為に

住職 久保井賢丈

「諸行無常」という仏教の言葉があります。

平家物語に、この言葉を引用した「祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響あり 」の有名な一節がありますが、それを聞けば「『いのち』とは儚いものだなー」と、どちらかと言えば「いのち」の儚さ、悲しさ、滅び、衰えなどをイメージされる方が多いかと思います。実は仏教語としての「諸行無常」はその意味合いが少し違います。

これは先に挙げた平家物語の影響が大きいのですが、文学的理念としての「諸行無常」は、儚さ、悲しさ、滅び、衰えを表現するうえで用いられます。しかし、それは仏教でいうところの「諸行無常」の一面だけをあらわしているだけにすぎません。諸行無常の「行」とは、この世の全ての現象、それは私たちの心の動き、行動も含んだ、全ての現象です。つまり「諸々の現象は常に一定ではない」という意味です。それは滅び、衰え、そして死、別れといったこともそうですが、その反対の生命の誕生、掛け替えのない出会い、人間としての成長、そうしたことも含めた全ての現象のことなのです。それは喜ばしい、有難い、嬉しいといった心の動きをも意味するのです。

昨日と同じ、今日はなく、今日と同じ明日もありません。全てが移り変わるということは一瞬一瞬が全てということでもあります。それは「いのち」の在り方も同様です。「いのち」も一瞬一瞬の奇跡の積み重ねによって、いまここに存在することができているものです。その「いのち」の行いは一瞬、一刹那の全てが奇跡なのです。だから良い時もあれば、そうでない時もある。「諸行無常」とは「この瞬間は永遠ではない」という現実を見据えたうえでの言葉、この世の真理を説いたお釈迦さまの教えなのです。

生きること、死ぬことは表裏一体です。『サンユッタ・ニカーヤ』という古い仏典の中でお釈迦さまが「生まれたものが死なないことはあり得ない」とお示しになっています。この現実を見据える真理をもって、自分の周りの状況、状態をすべて把握できた心持ちということがお釈迦さまの悟りの第一歩でした。自分の死と向き合うことが、未来の自分の在り方につながったのです。「今までの自分はどうであったか(懺悔)」、「これからの自分はどうありたいか(誓願)」、では、今の自分は「何をするのか」、「何をすべきか」を捉える。「今」というのは過去と未来をつなぐ、この瞬間のことです。

では私たちはこの瞬間を、この刹那をどう生きるのか?

それを決められる「私」でありたいものです。

 

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先日檀信徒の皆さまに大泉寺通信「せせらぎ」第6号を送付いたしました。

ご法事や葬儀のとき以外のお寺の様子をお伝えすることで、檀信徒のみなさまの安心につながればと思います。

中面は以下よりPDFにてご覧いただけます。どうぞお手にとってご覧ください。また、大泉寺にて配布中です。

大泉寺だより・見開き中面

 

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